あれから

大事なものを失って、全ての感性が一旦眠りについてから約1年がたった。

 

少しずつ回復しているのを感じる。

 

おかげで仕事には大いに支障が出た。

まあこれも人生だろう。

 

ふと思えば、

大学3年性の時からだったように思う。

これまではちきれそうな想いで、なんとか当座を凌いでいた気持ちの糸が

プッツリと切れた。

 

 

学校の成績は9割の評価が平均だったところから、5割の評価が平均になるまで

落ちた。

踏ん張ることをやめたのだった。

 

今踏ん張る力は筋肉のようなものだと思う。

一度その力が低下すると、再びつけるまでには時間と労力がかかる。

 

だから、机の上で知識を詰め込む「お勉強」などではなくても

 

部活で運動を続けていたり、ピアノを長く続けていたという人が

社会に出てからはしなやかに生き残れるのだと知った。

続ける筋力がどんな場面でも生かされる。

 

目に見えない何かの力が圧倒的に足りない私には

えも言われぬ無力感が襲った。

 

しんどかった。

自分のこれまでしてきた努力は積み上げたものではなくて、

「学習」と呼ぶにはあまりにもその場しのぎの付け焼き刃が連続して

城を作っていたように見えたに過ぎなかったのだと思った。

 

 

感性

感じることが出来ることを

 

どれほどありがたいことか。

 

私は大きすぎる悲しみを前にすると、

 

何も感じられなくなる。

 

10才頃の経験から来ているのだろう。

 

 

分かち合うことを諦め、

人の顔も痛い。

 

家族でさえ、届かない深淵。

 

この景色から、出来ることをしていこう。

 

大丈夫だ、きっと

あるもの

今あるもの。

 

心から信頼できる人たち。

 

まだ、

私のそばにはいる。

 

自分自身の感情を遠ざけていたことを知った

 

 

そのために出会ったのであればもう充分だ。

 

どんな時でも無条件に私を信じてくれる人がいる。

頑張れる人だと信じてくれる人がいる。

 

それだけで充分じゃないか。

人生に必要なものが

ちょっと多すぎて見えなくなっていた。

 

 

それだけだったのだ。

失敗

一旦、私は全て失った。

 

2年前に思い立った

 

音楽という表現方法、

 

それを通じて出会った人々、

 

今まで感じてこなかった青春、自由、

 

ちょっとした開放感。

 

 

感性で繋がれることの楽しさ。

 

そんなものに惹かれていった。

 

 

しかし、遠慮がちな私と

 

表現することを厭わない彼らとの差は

 

決して埋まることはなく、

 

綻びは

 

ごまかされる事はなく明らかになり、

 

 

これ以上の悪縁にならないうちに

 

 

私は去った。

 

過去になる日が来る

どんなことでも過去になる日が来る。

 

どんな嫌だったことも

避けたり、封じ込めたりする必要は無くて

無理する必要はない。

 

無理!って思えるほど考えられた、

向き合えた自分を褒めよう。